祝・日本の新しい世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
厳しい弾圧と迫害のなか、信仰を親から子へと
長崎県民に身近なキリスト教。信徒数を調べてみると2016年度の長崎教区の信徒数は60,989人で、全国にある16教区の中で東京教区の94,977人に次ぐ2番目らしいのですが、人口に占める割合で見てみると東京教区の0.492%に比べ4.408%と人口に占める割合は圧倒的に全国一だそうです。
長崎にキリスト教徒が多い一つの理由は長崎で始まった布教活動の歴史が大きく影響していると思います。1550年フランシスコ・ザビエルが国際貿易港であった平戸を訪れ長崎での布教活動が始まり、島原口之津での布教活動やイエズス会へ寄進した浦上、土地開拓で移り住んだ五島などキリスト教徒が長崎各地へ広がりをみせました。
島原ではキリシタン大名であった有馬晴信の庇護のもと修道士育成の西洋学校セミナリヨが創設され、ここで学んだ生徒たちが後のキリスト教の布教活動を務めます。
有馬晴信の死去、息子の直純はキリスト教を棄教し宮崎へ転封。その後に島原を収めた松倉重政が始めた島原城の建設や江戸幕府へ忠誠心を示すために普請役を買って出たため、島原の農民は重い年貢に苦しめられます。そして時を同じくして始まった幕府の激しいキリシタン弾圧による、口之津で起きた残虐な事件などが重なり島原の乱へと突入します。
島原の乱での農民そしてキリスト教徒の団結を目にした幕府は鎖国を敢行。鎖国を行いポルトガル船の入港を禁止することで、実質的にキリスト教の宣教師を国内から排除しました。
宣教師がいない日本。しかし長崎では宣教師が居ないなか、自分たちの信仰を捨てずに信仰形式は仏教や神教の様式を取り入れ生活を続けていたキリスト教徒がいました。彼らは表立った生活はキリスト教には見えなかったため、後に潜伏キリシタンと呼ばれることとなります。
1854年の日米和親条約の締結まで鎖国の時代は続き1858年に締結された日仏修好通商条約のあと、長崎にはフランス人が住まいを構え、彼らが礼拝で必要となる大浦天主堂の建立が始まり、1865年浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂へ訪れてプチジャン神父に自分たちのキリスト教の信仰を告白したことで、日本国内に既に居ないと思われていたキリスト教徒が250年もの間、独自に信仰を守り続けて生活をしていたことが、外国人である宣教師に伝わることとなりました。
キリスト教の禁教令が始まり厳しい迫害の危険があるにも関わらずに長崎では長い間、親から子へキリスト教を受け継ぎ信仰し続けたことが、キリスト教徒の人口割合が他の県よりも多い一つの理由だと考えられます。